今日のこと

 

 まっさらになりたい。この日を迎える度にそう思う。一年抱えてきた重たく暗い何かを、すべて放り出したい。そんな気持ちになる。でも、実際は一年なんて短いものじゃなくて、もう何年も積み重なってこびりついた澱みのような何かを落とすことも出来ないまま、ここまで来てしまっている。ただそれを見詰めるだけでは何も変わらないと知っていながら、いつかきっと、をもう何年も繰り返している。いつまで掛かるんだろう。いつ、赦せるのだろう。それがわからないまま、重たい身体を引き摺るように私は歩いている。きっと綺麗なものなんかじゃない。でも、それでも、前に向かって歩いている。もう少しだけ、歩けるだろうか。結末がどうなるかなんてわからないけれど、まだ、頑張ってみたいと思うから。だから、もう少し、歩いてみたいと思う。

 

 今日、私は、25歳になった。

安寧を追い駆ける夜

 ぐちゃぐちゃになればいい。すべて、ぐちゃぐちゃになってしまえばいい、衝動。腕を切りたい気持ちとはまた違う、けれど切っているところを何度も切ってしまいたいような、爪で引っ掻き回したいような、そんな衝動。目に見える形で自分を傷つけて、罰を与えて、それでようやく得られる安堵。そんな仮初めの赦しが欲しくて、何度も、何度も何度も負けてきた。呑まれて傷をつけては後悔をねじ伏せて、また呑まれれば忘れたように傷をつけて、どうして、と親に泣かれたトラウマだってある。けれど、思い出せる。耐えてやり過ごせた時だってあった、ということを。波が引いていくのを、じっと動かずに待つことだって出来た、と。覚えている。だから、後者が、やり過ごせる時間が、少しずつ増えていけばいい。泣いて足掻いてそれから、覚束なくても、抱きしめてあげられる日が来ればいい。いつか、いつか赦してあげられる日が来ればいい。自らを、自らの手で殺してしまう前に。

 

 私が、私で在ってもいいと思える、そんな日が。

いつかのこと

眠りに落ちることができなかった夜を、歪なこころごと抱き締める。

部屋に充満する夜食の残り香が私を罪悪感の海へ突き落として、

呼吸すらうまくできないから、ただひとり震えた指先でシーツを手繰り寄せた。

ぬくもりは此処に在る、けれどいつまでも冷えた心地がして、

知っているようで知らない誰かの体温を求めては孤独だけを知っていく。

閉じた瞼の奥から溢れ出した滴が静かに頬を伝う。

 

開かれたままの乾いた口内に流れ込んだそれは、たしかに潮の味がした。

胃腸の不調で落ちる不死鳥

 韻を踏むために無い知識から絞り出しました。これはただの日記です。

 不死鳥だって胃腸が不調だったらきっと飛んでいられないと思います。まあそんなことは置いといて、胃腸が不調だったのは私でした。先週の私は胃腸が絶不調で、すこぶる調子が悪かったのです。しかも、月曜から体調が悪かったのに、胃腸の調子が悪いと気が付いたのは水曜の夜でした。遅すぎる。お陰で救急にも掛かり(自ら)、翌日診察も受けました(自ら)。そんな話です。ほぼ言うてしもたな。(ちなみに私の出生は関西です。どうか許してください。)

 

 月曜日、私は微妙な気持ち悪さを感じながら出社しました。その日は、某緊急事態宣言のお陰で約2週間程の連休があり、それが明けたばかりなので緊張してるのかなあ、そんなことを思っていました。しかし、火曜日になり、様子がおかしくなってきます。気持ち悪い、ヤバいかもしれない……!それは職場でお昼ご飯を食べたばかりの私をみるみると焦らせ、私はついに過呼吸を引き起こしてしまったのです。幸いにして判断が早く、自ら別室に行き、収まらないので少しマシになったタイミングでメンブレを知っている上司に声を掛けました。上司は「焦らなくていいよ」と私をなだめてくれ、休憩時間込みで約3時間も私を介抱してくれました。その後、私は仕事に復帰し、残り時間しっかりと働いて帰ったのです。申し訳無さと達成感で、気持ち悪さが少し薄れたように感じていました。

 迎えた水曜日、私は昨日の気持ち悪さがぶり返さないか不安で仕方ありませんでした。上司との面談の日だったので、午前中に時間を設けてもらい、その旨を打ち明けました。そして、もしそうなりそうだったら遠慮なく声を掛けてくれ、そう言ってくれた上司のお陰か、私は午後の仕事を何とかやり切ったのです。昨日よりも強い達成感が私を包んでいました。しかし、胃腸は既にボロボロだったのです。質素な晩ご飯でも、私の胃は悲鳴を上げました。夜中、ベッドでのたうち回りながら、私は思いました。「もう、死ぬから良いんだ」と。

 酷い諦念でした。絶望が私を覆い隠すように暗い寝床で、私はひっそりと泣きました。良い、ことなど何もありませんでした。私は本来「生きていたいのに死にたくなるから困っている」のであって、死んでしまいたいわけでは無いはずなのです。ですから、そう思ってしまった自分に酷くショックを受けました。これは本当に、思うたび衝撃が走ります。雷が落ちたわけではないですが、雷が落ちて焼け野原になった自分の家を見た、そんな感覚です。積み上げたものぶっ壊して~の人に、間違って自分の積み上げたものぶっ壊された感覚です。別に何も積み上げてないんですけど……。

 まあともかく、私はショックで泣きました。また眠って、夜が明けて木曜日、仕事に行くために起きなければいけない時間にもそんな気分になり、結局休みの連絡を入れました。罪悪感と気持ち悪さで、意識を失ってしまいたくて、ひたすら眠ろうとしました。魘されました、何度も。自分のお腹からステゴザウルスの背中みたいなトゲが5本くらい出てきて、それが引っ込むと気持ち悪さがマシになる、そんな夢を見たりしました。

 夕方目が覚めて、まだ気持ち悪さは強く私を揺さぶっていました。久方ぶりに、親に連絡しようという気持ちになりました。私は実家を出るまでの関係上、親とあまり連絡を取りたいと思えず「音沙汰無いほうが元気だから」と言っていたのですが、それが本当になったようでした。連絡を取った先の親は心配をして「自力で病院に行けないのなら、救急を呼んだら」と言いました。私は(たしかに……)と思って、自ら救急車を呼びました。

 「火事ですか、救急ですか」「救急です」(中略)「それで、どなたが」「あ、私です」などとやり取りをしました。完全に意識があったのでサイレンは消してほしかったのですが、今は消すことが出来ないそうです(やはり救急の意味が無くなってしまうからでしょうか)。親に電話を掛け直したのですが、サイレンがすぐ聞こえて、私はバタバタと家を出ました。自分のことで救急車に乗るのは、これで2度目になってしまいました。(と書けば含みがあるように見えますが、1回目は自転車で前転したからです。)

 ちょっと文章を打つのが面倒くさくなってきました。とにかく救急車で運ばれて、対処療法としての点滴を受けました。あんまり良くなった気がしなかったのですが、そのあと歩いて帰ったところをみると、点滴を受ける前よりは随分とマシだったのかもしれません。あと、少し友人と通話して、シャワーを浴びました。それでもそのあとは魘されて眠りました。

 金曜日になり、目が覚めた私はまだ気持ち悪かったので、今日も病院に行こうと思いました。何より、昨日の救急で預かり金支払いをしたため、ちゃんとした支払いにも行かなければならなかったのです。そのため、私はその病院に再度赴くことにしました。職場に電話するまで2度寝したら、10分過ぎてしまい、申し訳なくなりながら電話しました。申し訳なくなっても休むところは休む、それが私です。

 病院に行った私は、ひたすら診察を待ちました。タクシーで向かったのですが、とにかく暑かったです。診察を待つ間もずっと気持ち悪く、何度も体勢を変えながら待ちました。しんどそうに見えたのか、何度か前を通る人にじろりと見られたのが悲しかったです。

 30分くらいして診察に呼ばれ「まあ胃腸炎かなあ」という診断を受けました。「本当に妊娠の可能性無いよね?」とわざわざ再確認したこと以外は悪くない医者でした。食前の漢方と食後の胃腸薬を薬局で受け取り、帰宅しました。それを飲むようになり、結構落ち着いた感じがしました。それでも昨日までは結構しんどかったですが。やっぱり、妊娠の可能性を再確認した以外は悪くない医者でした。

 久しぶりに夜も長く眠れ、土曜になりました。本来なら出勤だったのですが、体調のこともあるしメンクリに行っておこう、と思ったので休みの連絡を入れました。申し訳なくなっても以下略です。そういうところは私らしいなと思います。

 メンクリに着いて、診察まで待っていました。途中、予約だったけど過ぎちゃったという人が数人来て、みんな私の前に診察を受けたので何とも言えない気持ちになったのですが、自分が診察を受けた後、(余裕があるのとないのとってこういうことか……)と思いました。診察では希死念慮の強まりなどについて述べ、薬が変わるなどしました。そして、買い物をして家に帰りました。なんだか少し、心がすっきりしたような、この一週間自分を覆っていたもやのようなものが、ようやく晴れたような気持ちでした。ああ、長かった、日記終わりです。ご拝読ありがとうございました。

 ちなみに、今日は朝から掃除、洗濯、買い物、料理と動いたのですごく充足感がありました。でも疲れました。明日からの仕事が怖いです。でも頑張ります。以上です。

寂寞たる心を抱きしめて

遺書を書いた。

なぜ突然書こうと思ったのかは定かではないけれど、希死念慮がとても強かった。

薬を飲んでもあまり追い払うことが出来ないほど強く、苦しかった。

呑まれるかもしれないという恐怖が、何時でも付き纏っている。

今日はそれが、一段と大きかったように思う、だからかもしれない。

 

遺書には、私を許さなくていいこと、生きていたかったのに負けてしまって

申し訳ないということ、もしまだ生きる気力があるのなら、

今以上の不幸が無いよう祈っている、というようなことを書いた。

正直、許す許さないの問題かどうかもわからないし、

謝罪することが合っているのかもわからないし、

最後に関してはお前に祈られてもって感じだと思うし、

どうしてそういう内容になったのか全くわからなかった。

 

それなのに、書き進めていくうちに涙が止まらなくなってしまった。

今もこの文章を打ちながら泣いている。理由はわからない。

負の感情であることは確かだけれど、悲しいのか、つらいのか、苦しいのか、

はたまたその全てなのか、全くわからない。

 

もしかしたら、わかろうとしていないのかもしれない。

わかりたくないのかもしれない。それもわからない。

わかるのは、今の私はこの生活を絶対に手放したくない、

けれど、同時にそれと同じくらい死んでしまいたいと思っている、ということだけだった。

 

今はまだ、生きていたいと思う気持ちがあるけれど、ノートの最後のページに

書いたそれを破ける日は来るのだろうか。希死念慮が鎮まることは有るだろうか。

こんなにもこんなにも呑まれそうなのを、これからもずっと理性で

抑え込んでいけるのだろうか。

 

わからない、私自身の人生なのに、わからないことばっかりだ。

 

けれど、こんな苦しい夜でも、生きていくには越えなければならない。

烏滸がましいけれど、私も、そしてみんなも、そんな夜をどうか、

どうか乗り越えられますように。

 

85ミリの愛

煙草を吸った。2ヶ月振りだった。

記憶の奥底に眠っていた独特な苦味を噛み締める。

思い出す人はいつだって同じだ。

戯れのシガーキス、恋愛の真似事みたいな甘美な共依存は、

いつの間にかこんなにも苦くなってしまった。

もう戻れない、否、戻ることも無いけれど、

火を灯し、紫煙を燻らせて短い命を奪うその間だけ、

貴方に想いを馳せてしまう。

哀しみに覆われて朧げになってしまった倖せを、拾い集めて抱き締めたくなる。

そんな事をしたって、何も変わりはしないのに。変えられやしないのに。

けれど、そうさせたのはきっと私だったから、

濡れた睫毛は吐き出した煙の所為にして、

想いごと掻き消すように灰皿へと押し付けた。

またね、はもう言わないよ。だから、さようなら。

憧憬

遠く遠く、空が燃えている。

滲んだ赤を睨み付ける。

ユーラシア大陸みたいな雲が夜を連れて来る。

黄色い丸が支配する夜を。

わたしの心もお月様なら良かった。

翳る日の方が少ないんだもの。

満ちたって欠けたってかまわない。

だから夜よりも深い闇に支配されたくなんてなかった。

引っ掻いた流れ星みたいな傷が、今日もちりちりと痛む。

闇に呑まれたままで、わたしはずっと、月を見上げている。